天地に名が生まれるより前 ――「道」へ還る

天地に、まだ名が生まれるより前。
空と大地が分かれ、
人が自分と世界を分けて認識するよりも前。
すべては、ひとつの流れの中にありました。
古の人は、それを「道」と呼びました。
道は、目に見えるものではありません。
形もなく、名前もなく、誰かが所有することもできない。
それでも、そこから天地が生まれ、
自然が生まれ、私たちも生まれてきた。
万物を生みながら、
何ひとつ自分のものにはしない。
働きかけながら、
支配しようとはしない。
ただ、それぞれが本来あるべき姿へ向かうように、
大きな流れは絶えず巡っています。
老子は、その在り方を「無為」と説きました。
何もしない、ということではありません。
無理に動かさない。
余計な力を加えない。
本来の流れを妨げない。
水が高いところから低いところへ流れるように、
季節が巡るように、
満ちた月がやがて欠け、再び満ちていくように。
自然は、自分を何かにしようとはしません。
それでも、すべては動き、
生まれ、育ち、変化し、還っていきます。
人もまた、天地のひとつ
私たちはいつからか、
もっと変わらなければ。
もっと成長しなければ。
もっと目覚めなければ。
そうやって、自分の外側にある何かを追いかけることに慣れてきました。
知識を増やし、
経験を重ね、
さまざまな価値観や役割を身につけていく。
それらは、この世界を生きるために必要なものでもあります。
けれど、積み重ねたものを「自分そのもの」だと思い始めると、
いつしか、その奥にある本来の自分が見えにくくなっていきます。
人もまた、天地自然の一部です。
身体の中には血が巡り、
呼吸は絶えず外界と私たちをつなぎ、
氣は内と外を行き来する。
大宇宙と小宇宙。
古くから人の身体が「小さな宇宙」と捉えられてきたように、
私たちは自然から切り離された存在ではありません。
空を見上げることも、
風に触れることも、
お茶を飲むことも、
香りにふっと身体がほどけることも。
すべては、自分と世界との境界を少しずつ静かにしていく入口になります。
足すのではなく、還っていく
目覚めることは、
特別な存在になることではない。
遠くにある何かへ到達することでもない。
握りしめてきたものを、ひとつずつ緩めていく。
「こうでなければならない」
「私はこういう人間だ」
「これはできない」
「こう生きるしかない」
知らないうちにつくってきた境界がほどけていくほど、
その奥にずっとあったものが現れてきます。
静けさ。
自由。
そして、理由を必要としない至福。
本来、この世界は「空」。
何も固定されていないからこそ、
私たちは何にでもなれる。
昨日までの自分を、
今日も生き続けなければならない理由はありません。
何かを握りしめて自分を固定するほど、流れは滞り、
手をひらけば、また動き始める。
それは、川の流れにも似ています。
水は形を持たないからこそ、
どんな器にも入り、
岩があればその横を流れ、
やがて大きな海へ還っていきます。
宇宙から生まれ、根源へ還る
身体を整える。
氣を巡らせる。
呼吸を深くする。
心を静かにする。
お茶を淹れる。
香りに触れる。
瞑想する。
自然の中に身を置く。
それらは一見、別々のことに見えます。
けれど、flowbirthでは、
そのすべてをひとつの流れの中に見ています。
自分を覆っているものが静かになればなるほど、
本来の感覚はひらいていく。
そして、自然と人間、
身体と意識、
有形と無形、
大宇宙と小宇宙。
分かれているように見えていたものが、
本来ひとつの流れの中にあったことを思い出していく。
宇宙から生まれ、
根源へ還る。
そしてまた、そこから新しいものが生まれる。
flowbirth――流れの中から、生まれる。
探していた道は、
遠くにあるのではありません。
静けさの奥。
あなたの内に、
すでに在ります。

